自己啓発本とRedBull
やあ、にんとんくんだよ
2017年もおわろうとしてるね。
しみじみと今年もいいとしだったなぁ〜
さて、今日の話題は自己啓発本についてだよ
ところで、自己啓発本読んで、
「この本を読んで私変わった!」とか仰る方、いるのかしら?
にんとんくんはこれまで一人も合ったことがないので、そんな方がいらっしゃったら、ぜひお会いしてみたいです
にんとんくんは、みんなは自己啓発本はRedBull代わりに使ってるのかなとおもっているよ
つまり、
読後は一瞬、元気になる、しかしその元気は長続きしない
これだけ自己啓発本が未だに消滅せずに、売れていると言うことは、
みんながとてもつかれていて、むりをして、がんばっている
ということなのかもしれないなと思ったりもして
この種の本は、5冊読めば気づくと思うんだけど、主成分分析をしたらきっと
「自分を知ることの大切さ(含、好きなことをやれ)」
「人生(時間)の有限性」
「他者との中で生きていくことの意味」
といった、3つ程度のことしか書かれていないんだよね
みんなそのことに気づいていて、それでも読み続けるのは、
きっと、自己啓発本はなにも解決してくれないってことをうすうす気づきながら、
エナジードリンクとして飲み続けざるをえない、
空虚感や自己不全感を直視する怖さっていうのが背景にあるとおもうの
なんかじぶんはできるかもしれない
これを読んだら変われるかも
といった「期待」や「希望」はぼくたちの活動のエネルギーだからね
でも、「期待」や「希望」の前借りから得たエネルギーは、
RedBull同様に、続かない
なぜなら、前借りしたエネルギーは返す必要があるから
どうやって返すかっていうと
「行動する」とか「自分の頭で考える」ってことだとおもうんだよ
じつは、この「行動する」「自分の頭で考える」っていうのが
実にきつい作業(同時にとっても楽しい作業)だとおもうんだ
だから、その返済の前にまた次の自己啓発本を買う(RedBullを飲む)
→エネルギーを前借りする→つかれる→自己啓発本
の無限ループをくりかえす
特に、複雑な物事を単純に明快に言語で説明されるとみんな安心できる
「上司に好かれたければ、靴を磨け」
「彼を結婚する気にさせるには、褒め上手になって」
「お金持ちになりたければ、ポテチを食べるな」
とか、言われちゃうと、「自分にもできるかも」って思うよね
あ、ポテチはやめらんねぇーな
でも、これらは狭い狭い著者の1サンプル体験を一般化したものだから、
みんなにあてはまるものではないし、
人からいわれたことって、その場はなっとくできても続かないよねー
用心しながら、ふむふむと読みつつ
自分の頭で「でもこれって本当かな?」って考えてみると
そこに自分なりの答えや発見がみつかるんじゃないかとおもうんだ
この前、ビートたけしさんが取材を受けていて、インタビュアーに
「いまあなたは人生の物語はどのあたりにいますか?」と尋ねられていて、
にんとんくんは、たけしさんも、お年をめされてきたから
もう物語の後半戦くらいなのかなとか思ってきいていたんだけど、
たけしさんは、
「宇宙を研究している学者さんにいわせると、今は宇宙の最先端に自分たちは生きてるんだっていうのがあるからね」
とこたえていたんだよ
つまり、個人の人生の物語の枠組みから、宇宙の物語の枠組みに自分の人生をおきかえたんだよ
人間の人生って誕生から死まで一連の流れがあると思われているけど、それと同時に、多くの人は自分がいつ死ぬかわからないわけだから、人生の物語のどのへんにいるかについて実は正確にこたえられるひとは一人もいないはずなんだよ
たけしさんは、単純に一般的に「物語の後半」とこたえるんじゃなくて、ご自身の答えを紡ぎ出したんだとおもうんだ。もちろん一般的な人間の人生の有限性も理解してね
こんなふうに森羅万象、単純化出来る物事って実はほとんどなくて、
だからこそ、物事の単純化には「本当かな」って考えることが
ほんとうの自己啓発になるのかなと、おもったりもした
ながながと書いてしまったけど、
自己啓発本をわるいものではぜんぜんなくて、そこで自分が考えるという作業を、自己啓発本に投げ込んでしまうのはもったいないなぁという感想
それではみなさん、よいお年をお迎えください。ピース。
にんにん